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【インタビュー】松原のぶえさん「腎不全・人工透析・腎移植を全部経験した私の夢」

解説 演歌歌手
松原のぶえ

突然の悪夢。人工透析が必要って…

「体が何かおかしい」と感じたのは45歳のときです。

いつもなら長くても10日ほどで治っていたカゼが、2カ月たっても治るどころか、セキや鼻水、だるさがどんどん悪化するのです。夜は、あおむけでは息苦しくて眠れなくなり、とうとう壁に寄りかかってひざを抱えて眠るようになってしまいました。
ステージで声が出づらくなり、食べ物も受けつけなくなりました。

カゼじゃないかもしれない…とようやく気づき、近所の病院で検査を受けたら、肺に大量の水がたまり、肺水腫を起こしていることがわかりました。大学病院に即入院となり、そこで重度の腎不全が発覚したのです。

腎臓が2つ合わせても通常の2%しか働いておらず、レントゲン画像に映った私の腎臓は、通常のこぶし大ではなく、梅干しのように小さくなっていました。

腎臓が働いていないため、毒素が排泄されずに体中を巡り、もう少しで脳にまで回るところだったのです。
「場合によっては死んでいたかもしれません。人工透析が必要です」と担当医から告げられ、がく然としました。

幼少期に経験。急性腎不全での緊急搬送

思い起こせば、私は幼少のころに、急性腎不全で2週間入院したことがありました。幼稚園で遊んでいたら、突然、バタッと倒れて救急搬送されたのです。

そのときは重度ではなく、退院後、母が食事の塩分を少なめに調整してくれたくらいで、ふつうの生活に戻ることができました。
疲れやすいわけでもなく、むしろ体力には自信がありました。

幼いころから歌が大好きで「大きくなったら歌手になろう」と決めていた私は、中学1年生から4年間、週末ごとに、片道3時間半かけて福岡の養成所に通いました。
それから大手の音楽事務所にスカウトされ、高校2年生で上京してからの2年間は、歌の先生の家に下宿し、毎日厳しいレッスンに耐えていたのです。

一番たたき込まれたのは、「タレントの替えはいないのだから、体がいくらしんどくても仕事を休んではいけない」という鉄則でした。おかげで、カゼを引いても声が出せるほど、頑張りが利くようになったのです。

その分、無理をして体に負担をかけてしまったのでしょうか。加えて、職業がらトイレに行きたいときにすぐに行かれず我慢してしまったり、不規則な食生活だったりしたことも、腎臓を傷める原因になったのかもしれません。

担当医「死んでも知りませんよ」。それでも続けたい歌手という仕事

透析を始めたら、当然、仕事に支障が出てしまうため、「なんとか薬でようすを見られませんか」と主治医に頼み込みました。
先生はとうとう根負けして「死んでも知りませんよ」といいながら薬を処方してくれました。

その薬を飲んでも、人工透析の代わりになるわけではありません。退院後も、食欲不振や極度の疲れに加えて、めまいにも悩まされる生活が続くことになりました。

以前は平気でこなしていた1時間半~2時間のステージでしたが、途中で体がしんどくなってしまいます。演出に見せかけて、セットの階段に腰かけながら歌い、その場をしのぎました。

また、体中に、おできのような赤い湿疹が出て、お風呂上がりなどはかゆくてたまらずかきむしりました。湿疹は、顔や手先には出ず、着物で見えない皮膚の部分だけに出たので、なんとか隠せました。

手足は常にむくんで太くなり、両手を組むと痛いほどでした。足は、飛行機に長時間乗ったときのようにパンパンに腫れて硬くなり、指で全く押せないほどでした。
顔は、日焼けしたように黒くなり、会う人ごとに「南の島にでも旅行に行ったの?」と聞かれました。

そんな状態でさえ、慣れると気にならなくなり、毎日のように忙しく仕事をこなしていました。人工透析を受ける決心はなかなかつかず、水分や塩分を控えながら、だましだまし過ごしていたのです。

人工透析を受けながら、地方公演をこなした

数カ月後、クレアチニン値がさらに悪化し、とうとう人工透析の開始となりました。
重度の腎不全のため、2日に1回透析が必要で、地方公演のときは、最寄りの病院で透析を受けてからステージに立ちました。

matsubaranobue-stage.jpg透析を始めるとめまいや湿疹はなくなったものの、疲れをさらに感じやすくなりました。透析直後は体のむくみが取れてらくになるのですが、翌日にはしんどくなってきて、また透析を受けると元気になるといったくり返しでした。
こうなったのは、すべて自分の不摂生が原因です。

透析で命をつなぎながら、歌えるところまで歌っていこう…と覚悟を決めて前向きに考えることにしました。
もともと能天気な私ですが、さすがにつらいときもあって、人間やめちゃおうかな…と真剣に考える日もありました。

私の顔色は、どんどん青黒い土気色になっていきましたが、メイクをすればまだなんとかごまかせました。

しかし、透析を始めたとたんに、歌手の命ともいえる声にパワーがなくなってしまったのです。特に高音が出しづらく、ときにはかすれてしまう。
「声が出なくなったら、もう歌手をやめるしかない」というあきらめと「歌をやめたら何ができるのか」という不安が交錯しました。

所属事務所の社長である弟とは「田舎に帰ってカラオケ教室を開こう」という話までしていたのです。

腎臓移植の決断、提供者は実の弟でした

私の苦しそうなようすを、ずっとそばで見ていた弟は、「いよいよとなったら自分の腎臓を提供しよう」とひそかに考えてくれていたのです。
2009年の3月、公演に向かう車中で「5月に腎臓を移植しますから」と弟が淡々と私にいうのです。

最初はてっきり冗談だと思ったのですが、すでに手術の予約までしていました。どちらかといえば無口な弟で、私が歌手になってからは、自分より私を最優先にして、陰でずっと支えつづけてきてくれていました。

もし、私が逆の立場だったら、自分の腎臓をあげることができるだろうか…と、ふと思いました。私のためにいつも犠牲になってばかりいる弟でした。

brother.jpgそして、手術当日。私は弟の健康な体にメスを入れることが、どうしても申し訳なくなってしまいました。
先に手術室に向かうためエレベーターに乗り込む弟に、「やめるなら今しかないよ」と思わず口走ってしまったのです。

ところが弟は「あなたから歌を取ったら何も残らないんだから」と憎まれ口をたたくばかり。さっさと手術室に行ってしまいました。

一方、私は手術が急に怖くなりました。もしかしたら、死ぬかもしれない…と悪いことばかり考えてしまうのです。
担当医からは、「ここで手術を受けて亡くなった例は一例もありません」といわれても、不安は全然消えません。

実は手術前に、もしかしたら遺作になるかもしれない…と思いながら、それまで歌いたくても歌えなかった曲をレコーディングしたりしていました。
万が一成功しても、以前のように歌えることはないだろう…と、せっかく手術を受けられるのに、気持ちはとても後ろ向きになっていたのです。

手術は成功したのに、術後の経過は不安定⁈

心配とは裏腹に、手術は無事に終了。直後に、土気色の肌がスーッと白くなったそうで、付き添っていた家族が驚いたそうです。

ところが、移植後すぐにお小水が出るはずが、いっこうに出ないのです。
点滴の水分で体中がむくみ、まぶたが重く、ほおもはれて視界が狭まってしまうほどでした。

医師たちが入れ代わり立ち代わり病室にきては、「おかしいな」と首をひねるので、やっぱり手術は失敗したのだ…とがっかりしました。弟に申し訳ないと思いました。

手指の1本1本がパンパンにはれ上がり、手を握ることもできないくらいで、このままでは皮膚が破れてしまうのではないか…と恐怖を覚えながら、数日間ベッドに横たわっていたのです。

とうとう医師が、つながれている管を全部はずす決断をしました。すると、やっとお小水が出て、全身のむくみがみるみるうちにスーッと引いたのです。
ああ、助かったんだ…と、本当にホッとしました。

その後の回復はとても順調で、40日の入院生活を経て退院し、すぐに大阪のステージに復帰できました。

matsubaranobue-brother.jpg本当はまだおなかに力が入らず、仕事ができる体ではなかったのですが、主治医の先生が同行してくれました。着物姿でステージに立ったとき、ああ、戻ってこられた…という実感がしみじみわきました。

声が続く限り、歌いつづけたい

退院後、食事制限はとてもゆるくなり、グレープフルーツとスポーツドリンク以外は、何をとってもよくなりました。
1日2リットルの水をごくごく飲めるようになり、トイレに行きたい…という感覚も久しぶりに戻りました。
それは当たり前のようで、とても幸せなことだと改めて気づきました。

疲れにくくなり、腎臓に関するクレアチニンなどの数値や高かった血圧もすべて正常値を維持して、現在にいたっています。

具合の悪かったときは「たったこれだけ?」と思うほど少量しか食べられなかったご飯が、おいしく食べられます。
やりたいことも存分にできます。休みの日には、またゴルフを楽しめるようになりました。精神的にも肉体的にもまさに生き返った気分なのです。

こんなに元気に過ごせるのは、今この瞬間も弟の腎臓が、私のおなかで元気に働いてくれているおかげです。

その腎臓を異物として攻撃しないように、免疫抑制剤は一生飲みつづける必要がありますが、そのくらい、どうってことはありません。
カゼを引きやすくなるため、うがいを忘れず、寝ている間に口呼吸にならないように、医療用のテープを口に貼ったり、寒い時期は、ネックウォーマーを着けて寝たりなど、以前よりも健康に気をつけるようになりました。

そして2つの腎臓のうち、大きいほうを私にくれた、弟の体調も気になります。
あるとき、弟の後ろ姿が急にやせて見えたので心配したら、ダイエット中だったことがわかり、胸をなでおろしました。

おかげさまで、手術後は、もともと明るい性格がさらに明るくなりました。
それも、好きな歌を歌っていられるからかもしれません。弟のいうとおり、私にはやっぱり歌しかないのです。すっかり以前の声が戻り、手術から8年近くたった今では、高音のファルセット(裏声)と低音がさらに広がってきています。

karaoke.jpg歌手が本業ですが、カラオケ教室も開きました。それは、以前考えていたように、歌手をやめたあとのことを考えてではありません。歌の楽しさを多くの人に伝えたくなったのです。

私は、声の続くかぎり、歌いつづけたい。
「もういい加減やめたらいいのに」といわれる一歩手前まで歌っていたいのです(笑)。

松原のぶえさんの腎臓病の闘病年表

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この記事は、医療や健康についての知識を得るためのもので、特定の見解を無理に推奨したり、物品や成分の効果効能を保証したりするものではありません。

写真/©カラダネ

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